注目の書評

Powered by Blogger.
2015年2月14日土曜日


嘘やごまかしに満ちた社会との戦いを描く!


 世界とのズレ、というのは人を不安にする。正しいのが、自分なのか、世界の方なのか、だんだんとわからなくなってくるからだ。そして、その不安は、世界にだまされてるんじゃないかという感覚を抱かせ、次第に世界との「戦い」へと自分を駆り立てる。自分と世界のズレを、どのように解消したらいいのか。自分を信じて世界と戦い続ければいいのか(これを抵抗と呼ぶ)。それともいっそのこと世界の側に取り込まれてズレをなかったものとすべきなのか(これを同調と呼ぶ)。世界のなかで生きるとは、こうした二者択一を迫られることなのだ。


 吉村萬壱の『ボラード病』は、まさにこの世界と私のズレを主眼に置き、嘘やごまかしに満ちた社会との戦いを描いた傑作中編だ。

 物語は小学5年生の少女、「私」の視点で進んで行く。「私」は同じ市内にある古い農家へと母とともに引っ越してきた。「私」は学校のクラスでは少し浮いた存在だ。休み時間もひとりで過ごし、友達と呼べるような人は、同じ貧乏家庭で育った浩子と、文房具屋の息子の健のみ。母は昼夜ラブホテルの掃除係として働き、その間にあたらしく内職の仕事も始めた。父親は、いつのまにか、「私」の前から消えてしまった。

「私」にはこの海塚という街への強烈な違和感がある。それは、ことあるごとに市民同士の「つながり」や「結び合い」を過剰に求めてくること。学校では一体感をあらわにした奇妙な歌を歌わされること。そして、次々と周りの人々が死んで行くこと。さらに、そのことじたいを海塚の市民たちがなんの不思議もなくあたかも当然のごとく受け入れていること。こうした空間の気味悪さに抗うために、「私」は例えば、秘密の日記を書く、海塚市の特産品である魚を食べない、みんなと歌を歌わないといった行動をとり、自分を守る。

 理解してくれる人が身近にいてくれたら、「私」は少しでも楽になれるのかもしれない。だが、唯一の身寄りである母親を含めた大人たちは、何かを隠している。「私」のことを監視するように眼を光らせる隣人。至る所に現れる背広を着た男たち。消えて行く人々。こうして物語は、同調圧力(=周りの意見や行動に従わなきゃいけないと思わせること)に満ちた世界と、それについて行けず取り残される「私」、そして「私」の知り得ない何かを知りつつもひた隠しにする大人、という構図を取り始めるのだ。

 しかし、作品の途中、読者はこの物語が、小学5年生の少女の視点で語られる、純粋な世界への疑い、といった単純なものではないことに気づく。「私はノートを書いています。書きながら、思い出しています。(中略)しかしもう随分昔のことなので、スラスラとは書けません。」という語り手の独白によって、この物語じたいが、大人になった「私」のある種の告発であることに気づかされるのだ。

 小学5年生の「私」のストーリーはこの後、母親が病に倒れてから、変調をきたす。世界と「私」の戦いは、これまでの抵抗の物語から、同調、つまり、世界の側に取り込まれ、ズレそのものがなかったことにする圧力に屈する物語へと移行するのだ。しかし、それは、世界への違和感を確かなものとして信じてきた少女のむなしい敗北なのだろうか。全ては小説のラスト8ページで明らかになる。

 ボラードとは、船をつなぎ止める杭(くい)のことをいう。ここには二つの意味がある。ひとつは、決して倒れない人と人をつなぐキズナの支柱のこと。もうひとつは、捏造(ねつぞう)された偽物の世界を根っこで支えている「真実」のこと。すなわち、ボラード病とは、過剰なまでに人と人のつながりを求めてしまう病のことであり、また、真実を隠しながらも、その真実に寄り添うような形ででっち上げられた仮想現実で生きねばならない私たちの状態のことだ。

 大人の社会は何かとすぐに都合の悪い事を隠そうとする。それはあの東日本大震災以後、特にそうだ。真実が隠された偽物の世界のなかで、私たちは生きている。そして、SNSなどが発達した現在、誰かとつながってないと生きていけない気がしている人も多い。この小説はそんな世の中を告発し、そのありかたをもう一度、疑ってみることを私たちに教えてくれるのだ。

(2014年、文藝春秋、165ページ、難易度:2)

(執筆者:長瀬海)

無数にあるスイッチと、人生の地図


 どうして人は道に迷うんだろう­­――

 南と北を間違えちゃう方向音痴な奴の話じゃなくて。スマホを持たないアナログ人間の話でもなくて。私がしたいのは、人生の話。決して一本道じゃない、複雑に枝分かれしていて歩きづらい、でもだからこそ、それぞれの道には異なる可能性が煌々と光っている、そんな人生の地図の話。

 たとえば、進学。たとえば、就職。たとえば、結婚。

 人は大事な局面でいろんな選択を迫られる。そんな時に必要なのは、一歩を踏み出す力。目の前に示された選択肢を確実に選ぶ力。朝倉かすみの長編小説『地図とスイッチ』の言葉を借りれば、「スイッチは無数にあるんだよ。問題はどれを押すかってこと」だ。

 この小説は、1972年の9月8日に同じ病院で生まれた二人の男、蒲生栄人と仁村拓郎が主人公。それまで自堕落な人生を送ってきた栄人は2013年の現在、インテリアショップの社員として働いている。友人の相野谷が経営するその会社の名前は、「Switch of Life」。そう、さっき引用した、1991年のある夜に相野谷が放った言葉が社名の元に、ひいてはこの物語のテーマになっているのだ。

 一方で、拓郎は現在、東京にある鉄道会社の車掌として日々を過ごしている。拓郎の人生のスイッチが押されたのも、1991年。北海道の高校を卒業し、恋人や友人がこぞって大学へ進学するなかで、「世間に通用する手形」を手にいれるべく、一人、東京での就職を決意する。初めての恋人を北海道へ残し、拓郎は東京に出てくるのだ。自分の押したスイッチを強く信じて。

 物語は、こうして二人の思い出が入れ子式に語られながら進んでいく。二人は一度だけ、偶然の出逢いを果たしている。1980年のことだ。人工池で遊んでいた夏の日の出逢いは、その後も折に触れて回想される。そんなめぐり合いから幾星霜(いくせいそう)。二人はそれぞれのスイッチを、時には力強く押し、時には押すことじたいをためらいながら、生きて行く。

 女性との出会い、別れ、再会、結婚、出産、そして離婚。

 あるいは大学院進学、就職、退職、父親の死。

 文字で書くとこうした無機質な単語の羅列となるけど、その一つ一つにはスイッチを握りしめた二人の葛藤とドラマが宿っている。そして、思い出箱を全て開け終わった今、二人は再びスイッチを、ぎゅっと掴み、目の前の地図に一つの大きな矢印を書き込もうとしているのだ。

 語られるのは二人の個人的なエピソードだけじゃない。たとえばその年に起きた事件や流行った歌が、二人のスイッチを押す瞬間の記憶と絡まりながら想起されていく。たとえば1995年の地下鉄サリン事件や2004年に米国で起きた9.11のテロ。こうした事件の衝撃が確実に二人の人生に影響を与え、スイッチにかけた指を後押しする。

 でも、一つ、この小説で語られていないことがある。それは記憶に新しいあの東日本大震災。勝手な解釈になるけれど、物語最後でスイッチを押そうとしている二人は震災に背中を押されたんじゃないだろうか。そう読むことで、この物語は、震災を3年を経てもまだ何も始めることができていない私たちに、今、新しいスイッチを強く、しっかりと押すことを教えてくれるのだ。
(2014年、実業之日本社、248ページ、難易度:1)

(執筆者:長瀬海)

2015年2月13日金曜日

書評とはなんでしょうか。
書評とは、本を評すること、つまりその本に対して何かしらの評価を下すことです。
でも、書評の力はそれだけはありません。
書評には、みなさんのなかに眠っている読書欲を呼び起こす力があります。
歴史をさかのぼって見ても、本というのは、姿を変え形を変え、書き続けられてきました。
デジタル化の時代になっても、本は電子書籍という形になって、存在しています。
もちろん紙の本だって、まだまだ存在し続けています。
これからも本は、この世界に生み出されつづけるでしょう。
それは人間のからだの底に、本を読みたい、というとても純粋な欲望があるからです。
その欲望にそっと触れてあげること。その欲望に肥料を与えてあげること。
そしてみなさんが自分じゃ気付いていないそうした欲望に素直になるきっかけを与えてあげること。
書評にはそうした力があります。

また、書評とは案内のための標識のような役割もします。
図書館や本屋に行けば、万巻(ばんかん)の書が並んでいます。
でもその中から、どのような本を手に取れば良いのか迷う人も多いかもしれません。
それは本の宇宙のような、秩序のない空間で体を浮かべているようなもの。
そこに地図を差し出し、標識を立ててあげると、たちまちその宇宙が整理されて、風景が変わり、その空間じたいに何か意味のようなものが見えてきます。
書評にはそのような役割もあるのです。

この書評サイトは10代のみなさんが潜在的に持っている読書欲をそっと起こしてあげることを目的としています。
そしてみなさんが迷子にならないようなブックガイドになればいい、と思っています。

だから、私たちはみなさんの読書欲を眠らせないために、なるべく難しくない言葉使いで書きます。
それでも、聞いた事のない言葉が出てくるかもしれません。
その時は、ぜひ検索してください。
言葉に出会うことは、大切なことですから。

本を読むことの楽しさ。
それは教えてもらうものではありません。
私たちも、それを具体的に教えることはできません。
でも、それを発見するための手がかりを与えることはできます。
それはこのサイトのどこかにあります。
ぜひ、見つけてください。