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2015年3月12日木曜日


ゆがんだ世界の過去と未来をつなぐ物語


 想像してみるといい。ある恐ろしい出来事が起こって、その町の時空間がゆがんでしまうことを。そのすさまじい出来事が、町に生きる全ての人のそれまでの幸せだった人生を一度リセットして、人々は、全く別の苦しみの物語を新しく始めなければならなくなることを。それはSFでもない、ゲームの世界のお話でもない。とても現実的で、私たちの生きる世界で起こることでもある。

 インドのスラム街に四つ足で歩く一人の少年がいる。彼は名前など持ち合わせていないという。名前は、恐ろしい惨劇が起こった夜に、たくさんの哀しみと共に捨ててしまった。その代り、彼は自分自身のことをこう呼ぶ。「動物」と。


 物語の舞台はインドの想像上の町、カウフプール。この貧しさの隣に暴力があるような小さな町では、かつてそこに生きる住民を巻き込んだ汚染事故が起きた。海の向こうアムリカこと、アメリカに本拠地を構える「カンパニ」という大きな外資系企業が作った薬品工場は一晩で町全体に、恐怖、悲しみ、苦痛、そして絶望を与えた。工場は廃墟となった今もなお、カウフプールにまるで死の象徴であるかのようにたたずむ。歌声を失ったもの、言語能力に障害を抱えることになったもの、そして、背骨が曲がり四つ足で歩かざるを得なくなった「動物」。「カンパニ」という巨大な影が人々に与えた後遺症は消えることなく、町を生きる人々に恐怖のつめあととして存在している。


 もちろん作品じたいはフィクションだけれど、この事件にはモデルがある。1984年12月におきた「ボパールの悲劇」としても有名なインドにあるアメリカの殺虫剤工場の汚染事故。アメリカの大きな会社が、インドの小さな町を破壊した。30年近くも前のこの汚染事故を題材にして、作者は、想像の町カウフプールを舞台に、そこに生きる人びとの闘いの物語を描いたのだ。

 カウフプールの町の人々は、真の正義とは何かをみずからに問う。カンパニに対する抗議団体の伝説的指導者、そんな彼に恋い焦がれる女子大生、アメリカからカウフプールを救うという名目でやってきた謎の女医。彼らは「動物」のまわりで自分たちの未来を信じながら必死に生きる。彼らは正義を追い求め、はびこる不正を排除しようとする。しかし、海の向こうの見えざる敵が巨大な金や権力を持っているのに対し、彼らには何も無い。「カンパニ」と対照的に、インドの混沌とした無秩序な空間でどん底のような暮らしをする彼らはあまりに小さいのだ。だが、それでも彼らは、何も無いということを武器に、真実の正義をつかみ取ろうとする。彼らの魂はどんな薬剤にも枯れ果てない、強くそして豊かな力に満ちあふれていた――。

 現代社会の裏側では、その社会の産物によって無理矢理にゆがめられてしまった空間が存在することを、この小説は教えてくれる。そのゆがみをどのように生きるのか。ゆがみをみずからの一部として生きることは可能なのか。それはまさに背骨がゆがんでしまった「動物」だけの問題ではなく、あちこちにひび割れが露呈しつつある世界を生きるわたしたちの問題でもあるのだ。

 そうした問題を前に、公害汚染とみにくい人間のすがたを描くこの作品は、希望をもまた読者に示すことを忘れない。作品には馬鹿馬鹿しいくらい下品なユーモア終始飛び出してくる。毒づいた語り口や、薄汚れたぼろぼろのパンツのなかにぶら下がっている「動物」の大きなペニス。それは、あまりに純粋で、あまりに暴力的で、ときに愉快で、ときに哀しい。しかし、遠い海の向こうに影となって潜む見えない敵と闘うインドの民の、金でも権力でも買えない、人間としての豊かな不器用さ、だけれども必死で生きようとする強い生命力を作者はそこに見せているのだ。

 この物語は、暗い過去をただ思い出すだけじゃない。忘れてはいけない過去とどうやって付き合えばいいのか、損なわれた部分を損なわれたままに回復するにはどうすればいいのか、そのことを教えてくれる強い生命力を持った物語なのである。
(2011年、早川書房、498ページ、難易度:3)


(執筆者:長瀬海)