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2015年3月10日火曜日
大人になることの事件性
もうすっかり、いや~な大人の社会に染まってしまったわたしは、子どもにたまに憧れる。世界に対してあまりに純粋で、あまりに無防備で、あまりに真っ白。新品のi Phoneのように、好きな事を好きなように記憶していくことができる。そんな世界に住む子どもがずるくて、羨ましい。もちろん子供には子供の苦しさがあるんだけど。
たとえば、子どもは大人になることができるけど、大人は子供に戻ることができない。自転車の乗り方を覚えてしまうと、もう自転車に乗れないということができなくなるように、それは逆さまにすることができないものなのだ。大人になるとは、何かを失うことでもある。
だから、大人になることというのはひとつの事件でもあるのだ。いままで他者の世界だったものに組み込まれることというのは、それだけで衝撃的な出来事なのだから。映画『スタンド・バイ・ミー』で死体を見つけた4人の子どもたちの、冒険を終えて帰る背中姿がどこか寂しげなのは、大人の世界を渇望しながらも、それを知ってしまったときの混乱と喪心(そうしん)があるからだ。
カナダの作家マイケル・オンダーチェの『名もなき人たちのテーブル』は、こうした大人になることの事件性を描いたものである。
物語は、大人になった「僕」が語り手となり、11歳の頃の自分を思い出すようにして進んでいく。1954年、「僕」はスリランカから、大型客船オロンセイ号に乗船し、地中海を通り、母の待つ英国まで、3週間の「冒険」に出る。船には、同年代の少年が二人乗り合わせる。病弱で物静かなラマディンと、悪がきカシウス。他にも、「僕」が思い出すのは、鳩を連れて旅する秘密の過去を持った女性、地下室に庭園をかまえる植物学者、口を閉ざした仕立て屋、売れない音楽家、船の解体屋。彼らはみんな、「僕」と同じ船内でも最低クラスに位置づけられている食卓に座る。「僕」らは、権威にあふれる船長の席と比べて、その食卓を<キャッツ・テーブル>と呼ぶ。
<キャッツ・テーブル>の周辺には、「僕」の従姉、ある劇団の役者、それから聾唖の少女がいる。「僕」はこうした大人たちから、少しずつ大人の世界の秩序を学ぶ。性への目覚め、初めて見る人の死、罪の意識――そのひとつひとつが事件として語られ、そのたびに「僕」はまだ見ぬ世界の扉を開けていく。
ある夜更け、甲板を鎖でつながれながらひとりの囚人が散歩するのを「僕」らは目撃する。この囚人との出会いによって、21日間の「冒険」はその後も決して消えない刻印として、「僕」の人生に打ち込まれることになる。次第にあらわになる囚人の秘密。彼を見張る正体不明の捜査官。物語のラストで全ては明かされ、これまで船を包んでいた暗闇に光が灯る。そのとき「僕」らは、薄い膜で覆われた子どもの世界の秩序を失い、混乱と喪心に襲われながら、未知の世界へのステップを踏み出すこととなるのだ。
作中では、大人になった「僕」の、「冒険」の後日談が語られる。冒険を共にした友人の死、テーブルのメンバーの真実、彼らのその後の人生。年老いた従姉と再会を果たした「僕」に彼女は言う。「わたしたちみんな、おとなになるまえに、おとなになったの。そんなふうに考えることある?」
大人になること、それは事件だとさっきわたしは言った。それは言い換えれば、大人以前ということがひとつのかけがえのない、自分探しの時間であり、成熟することとはそれを失うことであるのだ。だからみなさん、大人の世界を知ることに焦る必要なんてありませんよ。それはゆっくりと、でも大げさなまでに大きな足音でやってくるのだから。
(2013年、作品社、311ページ、難易度:3)
(執筆者:長瀬海)